著者の自己紹介
著者逗子市在住 林 一雄
森鉄工株式会社 取締役 営業部長
ファインブランキング技術研究会 理事
社団法人日本塑性加工学会 会員 平成20年「功労賞」受賞
1939年(昭和14年)に生まれ戦争中には豊橋に疎開しガキ大将をやっていました。小学校の5年の2学期から東京の練馬区の大泉に戻りましたが、ここも田舎みたいな所で、またしてもガキ大将と級長に就任しました。
大学生までとガキ大将を継続しましたが、性格は至極穏和で、子供・女性・お年寄りには親切でした。
小学5年生の秋から近くの日曜学校に通い25才の時に洗礼を受け、聖歌隊ではバリトンを担当しました。
若いときには器械体操・登山・水泳・スキーなどで体を鍛えましたが、今やメタボ一歩手前で好きな和菓子は眺めるだけで食べさせてもらえません。
明治大学工学部はお茶の水の駅前にあり、近江兄弟社(メンソレータム)のビルで放課後にはドイツ語を習い、週1度宇井あきらと言うシャンソン歌手のレッスンを受けました。
工学部機械科には女子学生が一人もいなかったのでやむを得ず勉強だけの毎日を真面目に過ごしていました。けれども、勉強だけが青春ではない!と気がつくまでさほどの時間は必要ありませんでした。そんなある日のこと、喫茶店のベコーで「学生シャンソン友の会例会案内」のビラが壁に貼られていたのを見つけ早速入会しました。
設立メンバーは早稲田大学を中心に都内の主要大学の学生が揃っていて、跡見・大妻・共立・山脇などのお嬢さんたちがいたのも魅力でした。
新入会員の私が一番年少でしたから色々な雑用を引き受けることになり、約半年過ぎたある日、明治大学の制服と角帽を被った学生をシャンソン喫茶のジローで見つけ「学シャン」に入会を勧めました。
もしこの男が「学シャン」に入会すれば、どん尻から1ランク上になれる!
そんな作戦を知らずに弟分となったのが板ちゃんです。
例会で「明治大学空手部の板倉です」と板ちゃんが入会の挨拶した時に、仲間たちはただ者でない大型の浅黒い新入りに驚きましたが、やさしい青年と判ってホッとしました。
卒業と同時にスイスに勤務することになった私は、パリのシャンソニエまで約300kmを何にも苦にすることなく通いましたが、未成年だと思われ何度も身分証明書の提示を求められました。
スイスでは「希少価値のある東洋人」として、金髪・青い目のお嬢さんたちのペットとして、昼夜、個人外交に忙しい3年間を過ごしましたが、嫁さんになってくれる人とは巡り会わずに手ぶらで帰国しました。
帰国してすぐ板ちゃんに「学シャン」のお嬢さん方の近況を尋ねたところ、
「だれ一人仲間同士では結婚しなかったけど、皆さん幸せに結婚生活をしています」とあっさり言ったのです。
その後しばらくして、幸い嫁に来てくれる人が現れ、仕事に専念して50才まではスイス製の精密プレスを国内の時計・カメラ・自動車産業に紹介する仕事に従事しましたが、51才からは日本製の精密プレスを中国・韓国・アメリカ・カナダ・タイ・インドなどに輸出しています。
65才になったときに、会社を退職しようと考えて、日本工業大学の専門職大学院に最高年齢で入学しどうにか卒業でき、幕張の、独立行政法人雇用・能力開発機構高度職業能力開発促進センターの講師を引き受け、健康が許す限り会社と講師を続けています。
これまで訪問した24の国から連れて帰ったエンゼルは、応接間に14人、食堂に6人、玄関に26人、トイレに25人、寝室に23人そして庭にも3人います。
私には、2才年下の妻1人、息子3人、2才の孫息子がいます。
私には、三木一樹(ミキカズシゲ)と澄岳清(スミタケキヨ)という2つのペンネームがあります。
三木とは森、
一はマイナス、
樹は木です。
勤務先の社長は森さんですが、
私は少しばかり劣りますので、
森マイナス木イコール林
即ち、本名は林です。
澄岳清は、三男の澄里、二男の岳里、
長男の清里の名前を並べました。
身長は162cmで板ちゃんよりも14cm低いですが、ウエストは86cmで板ちゃんよりも8cm太いです。
板ちゃんはフランス語を話しワインを飲み、私はドイツ語を話しビールを飲みます。
元気に仕事を続けていますが70才になったら引退します。
墓は60才になったときに作りましたがまだこの世に未練があります。
自己紹介が長すぎました。
どうぞエンゼルに関係した話と、海外から連れて帰ったエンゼルとお付き合い下さい。












