クレーのエンゼル
Paul Kleeは1879年にスイスの首都のベルン近郊にあるミュンヘンブーフゼーに生まれました。父は人音楽教師、母はオペラ歌手という環境下で小さい頃から音楽に親しみ、クレー自身もプロ級のバイオリン奏者として11歳でプロのオーケストラで演奏するほどの腕前でした。しかし、その頃、西洋音楽は解体の道を歩み始めます。シェーンベルクに代表される、難解な現代音学の時代が始まるつつありました。誰もが感動する美しさを求めるクレーにとって、それは耐え難いことでした。彼は落胆し、音楽家への道をあっさりと捨ててしまいます。1900年、ドイツのミュンヘン美術学校に入学し象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックの指導を受けました。シュトゥックはカンディンスキーの恩師でもありました。 14才でベルン音楽協会オーケストラの第一ヴァイオリン奏者を務め、高校を卒業するまで音楽の道を歩むか絵画を目指すかと迷いましたが、卒業と同時にミュンヘンに出て美術の勉強をはじめ多くの人の熱い要望にお応えしてようやく商品化することができました。
ミュンヘン美術学校でカンディンスキーと共に学び友人とのチュニジア旅行をきっかけに独自の絵画芸術を展開し当時のドイツ現代美術界に確固たる地位を確立しました。
年間努め、ヒットラー政権樹立とともに弾圧を受け、ベルンへ逃れました。クレーは初期には風刺的な銅版画やガラス絵などを試み、また、アカデミックな手法の油絵を残しました。「芸術は見えないものを見えるようにする」と主張していたクレーの作品は、通常のキャンヴァスに油彩で描いたものはむしろ少なく、新聞紙、厚紙、布、ガーゼなどさまざまな支持体に、油彩、水彩、テンペラ、糊絵具などさまざまな画材を用いて描きました。サイズの小さい作品が多いことも特色で、タテ・ヨコともに1メートルを超える「パルナッソス山」のような作品は例外的です。2005年6月には故郷ベルンに彼の偉業を集大成しました。
その後「バウハウス」の教師として約10
「ツェントルム・パウル・クレー」がオープンしました。1906年以降ミュンヘン分離派展に銅版画を出品しました。
1910年にはベルン等で個展を開きました。カンディンスキー、マルクらの「青騎士」展には第2回展から参加していました。クレーは1916年から1918年まで第一次世界大戦に従軍し、1921年から1931年までバウハウスで教鞭をとりました。彼は芸術理論にも通じ、多くの理論的著作を残しました。
1931年から1933年までデュッセルドルフの美術学校の教授をした後晩年の数年間は故郷ベルンで過ごしました。
最晩年は手がうまく動かない難病にかかるが、背もたれのある椅子に座って白い画用紙に黒い線を引くことにより天使などの形を描いては床に画用紙を落とす事を繰り返したといわれ、子供のような無垢な目でモデルを捉え、大胆なデフォルメで表現するクレーの作品は幅広いファンをもっています。
私たちが学生時代に既にシャンソンの作詞で活躍していた谷川俊太郎さんは2000年にクレーの天子という詩集を講談社から発行し、世界に誇る詩人とピアニストの息子との美しいコラボレート!! 画家パウル・クレーが描く天使たちと、それをモチーフに谷川俊太郎が書き下ろした18編の詩を収めた詩画集「クレーの天使」と、自らその全ての詩を朗読したポエトリー・リーディングに息子の谷川賢作が奏でる、詩に呼応する18曲のピアノ小品、そして18編の詩それぞれをテーマにした18のピアノ曲のCD 2枚組を発売しました。
この中に1)天使とプレゼント 2)天使、まだ手探りしている 3)天使というよりむしろ鳥 4)泣いている天使 5)醜い天使 6)幼稚園の天使 7)おませな天使 8)忘れっぽい天使 9)希望に満ちた天使 10)用心深い天使 11)天使の岩 12)天使の危機 13)ミス・エンジェル 14)哀れな天使 15)老いた音楽家が天使のふりをする 16)未熟な天使 17)鈴をつけた天使 18)Angel Eyes 19)Angel 20)天使の涙 21)Miss-engelなど曲名に「天使」が付く曲が含まれています。
グレコの描いたエンゼル
1954年2月に銀座松屋で「大原美術館泰西名画展」が開催され約70点の作品が展示されました。当時私は中学生で展示品の中の印象派の画家の代表的な作品を数枚は知っていましたが、名画がどれ程の値打があるのかエル・グレコの名前は知りませんでした。
先生に引率されて行ったのですが、会場内では自由行動でしたので大勢の人が溜まっていた場所は避け、モネーの睡蓮、ルオーの道化などを見て出口で先生に、エル・グレコの受胎告知は人が多くて見なかったと言ったら叱られ再度会場に戻されました。
今度は人だかりはなかったので受胎告知だけを眺めましたが、受胎告知の意味を知りませんでしたので、ガブリエルのきつい顔と聖母マリアのなにか怖いものを観ているような表情が不思議な絵だと思いました。
主催の読売新聞社が発行した案内書は何度も見たので今では表紙が取れそうです。泰西名画について国宝指定の規定が有りませんが、国宝中の国宝とも言うべき画だとの説明で後になってからその画を見たことを誇らしく思ったのですが、そのずっと後に大原美術館の他にも全く似た画がブタペスト美術館、シギュエンツァ大聖堂、トレド美術館にもある事を新聞で読んだときは自分が見たのは、贋作だったのかとがっかりしました。
しかし、10年ほど前になって大きさは少しずつ違うがいずれもグレコが同時に描いた絵らしいとの解説を読みやっと安心しました。
フランスのシャンソン歌手にジュリエット・グレコという人がいますが、エル・グレコの親戚ではありません。グレコとはギリシャ人またはギリシャ風という意味だと教えられました。
イコンのエンゼル
地域的な差が生じた宗教画の中に東方正教会のイコンがあり、日本語で"聖画像"と訳しています。どのイコンのエンゼルも真面目な顔つきをして、厳しさを連想させます。
イコンは東方正教会で神への祈りの媒体とされる聖画で十字架の像と同じように、キリスト・聖母・エンゼル・その他、聖人などの聖画像は、教会の中だけでなく聖なる器物や衣服、壁面、家庭、時には路傍にも飾られ、表現されている人物を思い起こして、感謝・栄誉を讃え・崇敬します。
19世紀末から今世紀初頭に信仰を離れた形でイコンが脚光を浴びるようになったのは、異国情緒に満ち、伝統的様式と完成度を保った神秘さからです。
コンピュータ用語で「アイコン」と言っているのは、操作または処理の内容を略してシンボルで表示した、絵文字のことで、ギリシャ語で"図形"または"イメージ"を意味しています。
正教会の正式名称は神聖正統使徒伝承東方教会と言い、ハリストスはギリシャ語のキリストのことです。ハリストス正教会では、聖堂内には十字架の他には立体の聖像を置かないでイコンまたはイコンを飾ったイコノスタシスと呼ばれる立派な祭壇障壁にはエンゼルなどの絵があり信者は大切にしています。
日本ハリストス正教会教団函館ハリストス正教会(主の復活聖堂の)は河村伊蔵が設計し1916年(大正5年)に建設されましたが、ここのイコノスタシスには日本産の欅が使われています。また、十二大祭のイコンは山下りんさんの作品だそうです。ところで、歴史的に最も古いイコンで現存するものはどれほど古いかご存じでしょうか?
実は6世紀のもので蜜蝋で描かれたものだと仲間が教えてくれましたが、ローマン・カトリックでイコンは、絵や像などは偶像だと言う人もいます。
先頃ギリシャで開催されたオリンピックの見物に行った友人が、おみやげとして持ち帰ったイコンは、支持体としては適さない軟らかな板を使っていたので貰ってからい2月年足らずで反り返ってしまっただけでなく、石膏にテンペラ画でなくラッカーが使われていたのです。
骨董品だと信じて高い買物をした友人には言えないので、本物のイコンとはどのように作られているのか興味を持って専門家に話を聞いたところ、イコンは材料の選択・幾何学的な構図・色彩・主題・大きさなどで様々な取り決めが守られているそうで、これらの条件を満たさないものは、単なる"絵"なのだそうです。
イコンを描く人は専門の修行をした人だけに限られ、しかも作業に先立って身を清めると聞きました。日本では山下りんさんという人の右に出る人は居ません。
山下りんさんは、1857年に笠間市に生まれましたが、彼女が4才の時にニコライ司祭が函館に着任しました。6才の時に父を失った彼女は15才の時に画家を志して家出して、20才の時に工部省の美術学校に入学し、同期の山室政子の勧めで正教会で受洗し、ロシアのペテルブルク(旧、レニングラード・現在のサンクト・ペテルブルグ)に留学して東方正教会で2年間ほど聖画の勉強をしました。
伝統的なイコンは明暗はなく遠近法によりませんが、彼女は近代絵画を学んだので従来のイコンとは異なり、彼女が生涯描いた約300のイコンはやさしさを感じさせます。誕生の地の笠間市にある日動美術館に作品が展示され、受胎告知のガウリイル〜受胎告知のマリアなどのイコンが日本全土にある約40の正教会にあります。
地方にいるエンゼル
多くの画家がエンゼルを描いています。そこでそれらの絵を見るにはどこに行ったらよいかですが、個人のコレクターが見せてくれるわけはありませんし、画商もそうは簡単に見せてくれそうではありません。やはり美術館ということになり、中川一政・葉祥明・岡本太郎・東郷青児・脇田和などの個人の美術館なら捜す絵を見つけることが出来ますがこれらの画家がエンゼルを描いているとは限りません。そこで、私はまず最初に美術館の図書室でその画家の作品のリストをを調べてから、生まれ故郷又は出身校を訪ねてかなりたくさんのエンゼルを見つけました。例えば棟方志功の絵の場合には生まれ故郷にある青森県立美術館の棟方志功展示室・青森市松原の棟方志功記念館・工房の有った鎌倉山の棟方版画美術館で捜しました。
デュラーとエンゼル
アルブレヒト・デュラーはドイツに1471年に生まれた偉大な芸術家で、水彩・油彩・版画などのすばらしい作品を残しました。中でも版画は緻密で何時間見ていても飽きることはありません。ボストン美術館にある、「ネメシス(大運命神)」の翼をどうぞじっくりとご覧下さい。
りんごの木でできた有為転変を表す車をもち、奢り高ぶる者を懲らしめる鞭を腰の帯びにつけています。
ネメシス Nemesisはギリシャ神話に登場します。夜の女王のニュクスと水神オケアノスの娘で、運命の女神を助ける役割をもつ、テミス(必然)の妹。すべての神に生命と死を与える女神でもありゼウスさえ恐れさせた存在です。しかし、後にゼウスとの間に絶世の美女・ヘレネ〜をもうけていたりします。
復讐の女神とか大運命神と紹介され、正義が犯されたときに報復し罰を与える女神です。
美青年ナルキッソス(水仙)を慕うニンフのエコーに対して冷たい仕打ちをして心を傷つけたときに、その思いやりのなさに怒ったネメシスはナルキッソスに「自分自身のみを愛する」呪いをかけました。そのためナルキッソスは、泉に映った自分自身に恋焦がれ実らぬ恋に苦しみ衰弱しててついに死んでしまいました。
ナルキッソスの死んだ場所に水仙が咲くので人々はナルキッソスは水仙に生まれ変わったのだと言われるようになったのです。
天使の物語
天使または妖怪という言葉の響きに魅力が有るからでしょうか、これまで題名にエンゼルがついた沢山の著作が有ります。題名はエンゼルと書かれていても必ずエンゼルが登場するとは限りませんから期待しないで下さい。
Collin.Wilox. PaxtonとGary.Cardenの二人が書いた「 Papa's Angel」を鳥飼まおさんが訳したのが「クリスマスの天使」です。もうすぐ13歳の生涯口をきくことができないわたしと5歳の末っ子までの4人の妹弟とお父さんを残しておかあさんが死にました。沈んだパパを元のように戻すため近くに住むおばあちゃんと子供達が懸命に努力をする素晴らしい物語です。
東野圭吾さんの短編集「天使の耳」は身近な話題の交通事故を題材とした特集ですので是非とも自動車を運転をする人に読んで欲しい本です。1992年に発売されたときには「交通警察の夜」と言うタイトルでした。深夜の交差点で衝突事故が発生しました。その車を運転していた人の妹も一緒に乗っていましたが、彼女は目が不自由でしたが天使の耳を持っていて、彼女は交通警察官も経験したことがないような驚くべき方法でお兄さんの正当性を証明しました。
ここで、この本の中の他の作品も紹介します。
「分離帯」は被害者の妻が法で裁けない罪を自ら裁きます。もっとも日常的とも言えそうな事故で人間関係の妙が詰まってて引き込まれます。「危険な若葉」は煽られた若葉ドライバーの復讐劇です。この本の中では最も娯楽性が強い作品です。「通りゃんせ」は路面駐車が間接的に消した一つの命の話です。「捨てないで」はポイ捨てされた缶が後続のオープンカーの助手席の人にぶつかり、不幸にも視力を失う事になります。貴方もいつ交通事故にあうかわかりません。こうした事故のきっかけは些細なものです。そして貴方が加害者であろうと被害者であろうと人生は劇的に変わります。
ドナ・ヴァンリアーさんの「Christmas Shoes」は、富と名誉を手に入れたけれども満たされない弁護士のロバートが、ある日ガンで寝込んでいる母親に靴を買おうとしている少年と出会う。しかし、レジの人が「ごめんね、坊や、お金が足りないよ」と言う。がっがりする少年がロバートを見つけて「おじさん、ぼくはこの靴をママに買わなきゃいけないの。ママは今晩イエス様に会うかも。もしママが今夜イエス様に会う時、きれいな靴を履いていてほしいの」と言いました。ロバートが見失っていた本当の生きる意味を見出すというストーリーです。これは「天使の靴」と日本では訳された物語です。
天使の人形
ジェリー・ブレッドソー作のものがたりです。クリスマスが近づくと、「わたし」はいつも大きな段ボール箱から古ぼけたクリスマスグッズを取り出します。赤いリボン、ひび割れたオーナメントなど一つ一つには、彼の大切な思い出がつまっています。その中で箱の一番下にしまわれている天使の人形は、50年前のホワイティとの友情の証拠になるものでした。
ホワイティは貧しい少年で、サンディという病気の妹がいました。新聞配達をいっしょにして仲良くなった「わたし」も、すっかりサンディと親しくなりました。サンディは天使が大好きで、天使が出てくる本を読んで自分も天使になりたいといつも言っていました。ホワイティと「わたし」は、いっしょに貯めたおこづかいで家族へのクリスマスプレゼントを買いに行きましたが、天使の人形はなかなか見つかりません。ホワイティはサンディにぜひとも、天使のお人形をあげたかったのです。ふたりで知恵をしぼった結果、お店に売っている美しいお人形をバーンズさんに天使の羽をつけてもらうというすばらしいアイディアが生まれました。
ところが、ホワイティがお人形を手に入れるまでが大変。こつこつためたお金を落として探し回ったり(ポケットの裏地に挟まっていて、見つかりました)、お目当ての人形が売れちゃいそうになったり(危ないところでセーフでした)、やっと人形を手にしてバーンズさんのところへ持っていくことができました。バーンズさんは、人形を素敵な「ちびっこ天使」に変身させてくれました。プレゼントの用意がせっかくできたのに、サンディは人形をもらうことができませんでした。病気が重くなって亡くなったのがクリスマス・イブだなんて、ホワイティにとっては悲しすぎるできごとでした。人形を受け取ることもなく別れてしまった「わたし」とホワイティ。人形は「わたし」が変わりに受け取って、いつかホワイティに返そうとしまってあったものでした。エピローグで、誰かわからないけれど毎年クリスマスに天使の人形を子どもたちに送ってくる篤志家がいるのを聞いて「わたし」はホワイティだと確信します。と書いてあります。児玉真美さんの訳が素敵です。
薩摩治郎八さんの天使
私たちが学生だった1950年代の末から60年代の初め、私たちにとってパリはとても遠い国でしたので、何とかしてパリ情報を得ようと思い、いろいろな本を読み漁りました。
その中で荒唐無稽なことで私たちを喜ばせてくれたのが大金持ちの薩摩治郎八(さつまじろはち)さんです。
1958年に音楽の友、臨時増刊として発行されたシャンソン読本の巻頭座談会の「シャンソンよもやま放談」などを夢中に読みました。
治郎八さんは昭和天皇・佐藤栄作さん・阪妻さんなどと同じ1901年に、日本橋の「木綿王」薩摩治兵衛の孫として生まれました。治郎八さんは実業家・作家で大富豪でした。1920年にイギリスのオクスフォード大学に留学し、ギリシア演劇などを学び、藤原義江さん・藤田嗣治さんなどと親交を結び、1926年に山田英夫伯爵の令嬢千代子さんと結婚しました。
治郎八さんの自伝によると「巴里の自由な空気に浸って、芸術家気分で暮らして居た私には、わずかに伝統的な花柳界の朝夕のみが東京に対する唯一の執着であったから、結婚問題は私にとっては青春の墳墓としか考えられなかった」といっています。
治郎八さんのフランスへの再渡航が決まると、結婚問題をうやむやにもできない情勢になり、また、フランスでの社交界では夫婦同伴がルールでしたから結婚を決断したのでした。パリでの夫妻は、お互いの自由を尊重しつつもパリ社交界の話題をさらうような華やかな夢のような生活を満喫しています。パリでの派手な生活浪費ぶりから「バロン・薩摩」と呼ばれました。
1956年に日本に戻り、1959年に徳島県を訪れ、旧友の蜂須賀正氏侯爵の墓参りを兼ねて阿波踊りを妻とともに楽しんでいた際に脳卒中で倒れ、その後は徳島で療養生活を送り、1976年に死去しました。「青い目の天使たち」は1957年に美和書院から発行された「なんじゃもんじゃ」の中に書かれている話です。1998年10月に徳島県立近代美術館で、遺品を手がかりに、内外の美術館やご所蔵家のご協力を得て「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」が開催されました。この展覧会は横浜そごう美術館で1999年2月、奈良そごう美術館でも1999年4月に開催されました。このほか、コレクションとしては、狩野常信、土佐派の屏風、鈴木春信、司馬江漢、鏑木清方、山村耕花らの日本画に加えて、藤田嗣治、荻須高徳、高野三三男、出島春光、岡鹿之助ら、当時パリに在住していた日本人画家たちの作品が現在もプラハ国立美術館に所蔵されています。『芸術新潮』1998年12月号が薩摩治郎八を特集、2001年7月の産経新聞「日本人の足跡」でも取りあげられています。治郎八さんの伝記については戸板康二『ぜいたく列伝』(文春文庫)を、また治郎八さんとは直接関係はありませんが、この当時ヨーロッパにいた若い日本人たちの生活は、横光利一の「旅愁」に書かれていますので是非ご一読下さい。
迷子の天使
私が子供の頃、初めてスキーに挑戦してゲレンデに連れて行って貰った時のメンバーの一人に「桃ちゃん」と言う名前のおばさんが居ました。周りにいた人たちが「桃ちゃん」と呼んでいたので私も同じように「桃ちゃん」と呼びました。2007年3月、その「桃ちゃん」が100歳を迎えました。創作から翻訳まで幅広く活躍してこられた石井桃子さんです。
石井桃子さんは1907年3月10日に埼玉県に生まれました。日本女子大学英文科を卒業し、編集者として新潮社の「日本少国民文庫」、岩波書店の「岩波少年文庫」「岩波の子どもの本」の編集にたずさわりました。私たちが子供の頃に「ノンちゃん雲に乗る」を発表して文部大臣賞を受賞しまし、後に鰐淵晴子さん主演でこの作品は映画化されましたが、「ノンちゃん」は天使なのかもしれません。また翻訳書としては、ミルンの『クマのプーさん』、『プー横丁にたった家』、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』などがあり、他には、創作『山のトムさん』『三月ひなの月』、共同研究『子どもと文学』があります。
そして、朝日新聞に連載された、親子そろって楽しめる家庭小説に石井桃子さんの「迷子の天使」があります。東京の効外に住む学者肌の念海さんご夫妻と元気な6年生の一人息子の話です。
夫人はちょっとそそっかしいけれど、お人よしの正義派。自分の研究以外のことには、とんと無関心な御主人と、ひとり息子の宏ちゃんのほかに、しょっちゅう新顔のふえる迷子ねこたちの世話で、夫人は毎日てんてこまいです。そんな奥さんのまわりには、孤独な少女、精神障害の子、不良化していく少年たち。そして彼らをめぐっておこる困った事件は…。福音館書店から出版されたこの本の挿絵を描いたのは石井桃子さんとほぼ同じ年齢の脇田和さんという画家です。青山学院を中退して多くの人がパリに行ったのに脇田和さんは14〜22歳までベルリン国立美術学校で学び、猪熊源一郎・小磯良平さんなどの仲間でした。1955年「あらそい」で本国際美術展最優秀賞を受賞。また1998年の文化功労者です。1966年に出版されたロシア民話絵本「おだんごぱん」の挿絵も好評です。山口県の下関市立美術館には「花にくる天使」という1950年のいかにもこの人らしい作品が有ります。もうすぐ100歳になる2005年12月に逝去なさいました。




